人物福祉

ヘレン・ケラー!何を行った人物ですか?

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ヘレン・ケラー
「わたしは本当にわがままでした。大学に行っても自分の事だけを考えて生きてきました。しかし、サリバン先生は違いました。先生はわたしのために全てをささげてくれました。障害を持った人の気持ちは、当事者にしかわかりません。だから、今度は私がそういった人たちの為に一生をささげたいと思っています。」

ヘレン・ケラー(1880年生まれ)が大学を卒業したのは24歳の時でした。その後、国際会議でスピーチをした後、サリバン先生に対して上記のメッセージを告げるのです。 → 耳と目が不自由なヘレン・ケラー!話すことができた理由 (福祉情報149参照)

彼女がやりたかったのは、主に視覚障がい者の自立でした。
自立するためには働かなければいけません。 働くためには教育が必要です。 しかし、貧しい人は盲学校で勉強をする事すらできません・・・。

当時、視覚障がい者に対する法律が整っていませんでしたので、盲人を支えているのは、家族であったり、慈善団体などの寄付金でまかなわれていたのです。よって、視覚に障害があったとしても、国からの援助はありませんでした。

そこで、ヘレン・ケラーが最初に取り組んだのが、視覚障がい者の方が働けるお仕事を見つける事だったのです。 26歳の頃、マサチューセッツ州の盲人委員会の委員になった際、視覚障がい者のお仕事の必要性を強調し、実際に運動も行っています。

ヘレン・ケラー
「寄付に頼るのは悪いことではありません。しかし、自立した生活ができ、無能ではないことを世間にアピールできれば、これほど素晴らしいことはない。」

また、視覚障がい者にならない対策も訴えています。
当時、妊婦が性病だったことにより、目が不自由になってしまう赤ちゃんが多く存在していました。 → 妊婦が性病!赤ちゃんの視力に障害が?(福祉情報133

しかし、「性病にかかっているわけがない」・「性病にかかっている事を認めたくない」そんな考えが主流でしたので、性病との因果関係がわかっていたものの、改善しようとしなかったのです。 発信力のあったヘレン・ケラーは、このタブーを訴える事により、視覚障がい児を少しでも減らしたいと考えたのです。

講演会や執筆活動などを積極的に行っていたヘレン・ケラーさん。後に、どん底を経験し、生活すらままならない事態に発展してしまうのです。

第一次世界大戦を批判し、反戦運動を展開するのです。
すると、今まで支持していたメディアなどが一斉に彼女を批判し、講演会や執筆活動のお仕事が激減してしまったのです。FBIからも目をつけられてしまいました。

1918年、そんな生活苦を打開するために決断したのが映画に出演する事でした。(38歳)

40歳からは、巡業で各地を転々としている一団に同行しています。 「アザラシショー」・「クマショー」・「タップダンスショー」でお客さんが盛り上がると、最後はサリバン先生が登場し、ヘレン・ケラーとの過ごした数々の日々を話してゆく。 お客さんの拍手喝さいを浴びると、舞台でヘレンと抱きあうのです。

 

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この頃、盲人団体のトップ達が集まり、話し合いが行われます。
「視覚障がい者に関する様々な問題があるけれど、これらを取り組むために統一させた組織を作ったほうがいいよね~?」 話し合いの結果、アメリカ盲人援護協会という組織が誕生しました。

生活苦の中、ヘレン・ケラーはこの資金をねん出するために講演旅行に出かけます。(43歳の時でした) この動きに、自動車王ヘンリー・フォードや石油界のロックフェラーも賛同し、また25万人以上の人たちに訴えかけると、100万ドルもの大金が集まりました。

やがて、転機が訪れます。
アメリカ盲人協会が、「是非ともヘレン・ケラーを大使として迎えたい!」といってきたのです。つまり、「お金を支払いますので我々の活動に協力してください」といってきたのです。 これで、生活の不安を抱えることなく活動に専念する環境が整いました!

アメリカ盲人協会は、視覚障がい者の為の学校を作ったり、視覚障がい者のお仕事を見つける団体です。ヘレン・ケラーが本当にやりたかったお仕事がここにあったのです。

アメリカ盲人協会で働く事になったヘレンさん。
大使として、様々なお偉いさん達と意見を交わしていくうちに、人脈を作っていくのです。

そして、1935年に社会保障計画法という法律を改正する事に成功しました。 今まで、視覚障がい者は国からの援助が受けられませんでしたので、家族や寄付などで支えられていました。しかし、これからは目が見えない人に対し、わずかな援助を認める文言を付け加えさせたのです。

アメリカでのヘレン・ケラーの大活躍。

一方、日本では盲人の岩橋武夫(日本ライトハウスの創設者 = 視覚障がい者の自立を理念とする団体 1935年設立) がヘレン・ケラーの家に行き、「障がい者福祉の向上の為に、日本に来てはもらえないだろうか?」と訴えるのです(1934年)

こうして、日本にやってきたヘレン・ケラーは全国を講演。また、障がい者を励ましたりするなどし、日本中が大フィーバーとなりました。

この流れが障がい者に対する理解が深まるきっかけとなり、日本で初めて障がい者のための法律である、身体障害者福祉法(社会で自立するための訓練施設や相談員の設置を義務づける法律)を作る原動力になっていくのです。

著者 出川 雄一(ツイッター)   障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。

福祉情報151へ 今さらですが、新渡戸稲造って何をした人ですか?

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